デーブ・スペクターさんみたいになって、twitterでダジャレをフランス語でかましてみたいです。
と、半分冗談の半分本気なようなことを毎日考えています。
下手すると10分に1回くらいは、そう考えているかもしれません。
フランスに住んでいるので、仕事でもフランス語、買い物でもフランス語、親戚の集いでもフランス語。
フランス語に囲まれて過ごしているおかげか、フランス語には不自由を感じませんが(本当にありがとうございます、大学の仏文科の先生方)
それでももちろん「自分のフランス語はダメだ」という想いにかられています。
フランス語の習い始めのスタート地点から、目指すフランス語レベルのゴールまで、道々、色んなことを勉強してきたけれど取り残してきたことがあるような。
そんな気がします。
この悩みはきっと一生続くんだろうなと思います。
非ネイティブの運命です。
勉強し残してきたこと、完璧に自分のものには出来ていないこと、そういうことを1つ1つ拾っていったら、どんだけ上達することか!
と思っていても、分かっているんです。
えぇ、ちゃんと分かっているんです。そんなに語学は簡単じゃないってこと。
それでも、大学生の時のフランス語の文法の教科書(京都大学フランス語教室編のManuel pratique de langue françaiseでした)を、1ページ目から隈無く読み直してみたり、Le Mondeの記事で分からない単語をしらみつぶしに調べてみたり、要は、効果があるかどうかは別として自分の欲を満たすためにやってるだけなんですが。
分からない単語1つに出会うだけで、自分がétrangèreと再認識されるような気がするのです。
フランスに生活していれば、やはり自分は外国人なんだなと生き辛さを感じるもの。
その生き辛さを感じる原因No.1がやはり言語です。
数年前のBACの哲学の問題じゃないけれど、言語はただの道具であるか?という問いにはOuiとNonの答えを用意したいです。
Oui…言語はただのコミュニケーション道具。言語がないと人間のコミュニケーションは充分に取れない。
Non…道具というよりも、ウチとソトを分別する判断基準。同じ言語を操れなければ、完全にウチにはなれない。 その判断をするのに言語が必要。
なんでフランス語をやってるんだろうと弱音を吐きたくなる時もありますが、そんな時は恩師の言葉を思い出すようにしています。
La vie, c'est une étude.
0 件のコメント:
コメントを投稿